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​境界線のなかを歩く

1945年8月6日、当時13歳だった私の祖父は広島で被爆しました。

これまであの日のことを誰にも話さずにいた祖父に初めてその話を聞いたのは私が21歳の時です。

この作品は初めて祖父が話してくれたときから繰り返しおこなっている対話をもとにを制作しました。

熊本で暮らす祖父がかつて広島で被爆したということを知ったのは、私が小学生の時でした。

被爆したときのことは母もよく知りませんでしたし、私も何年もの間自ら祖父に話を聞こうとはしませんでした。その気持ちが変わったのは5年前、祖父の死がもうすぐそこまで迫っているような怖さを感じたことがきっかけです。

 

祖父が怪我をしたと聞きお見舞いに行ったとき、祖父の弱りきった姿に衝撃を受けました。

命に別状はない怪我でしたが、生と死の境界を彷徨っているような危うさを感じました。

うまく言葉で表すことができないのですが、生きようとする力が一時的にとても弱まっているように感じられたのです。

そんな祖父の姿を見て、いつか聞こうと先延ばしにしていたあの日のことを祖父の口から聞いて、自分なりのかたちで残したいと思うようになりました。

 

広島に原子爆弾が投下されたとき、祖父は学徒動員で江波にある造船所にいました。

爆心地から少し離れていたこともあり祖父に大きな怪我はありませんでしたが、街の中心部にいた父や兄は大きな怪我を負いました。

あの日見た光景、歩いた道のり、苦しみながら死んだ父について、祖父は淡々と話してくれました。

一方で、私が広島市内の古本屋で見つけた当時の広島の地図を見せると、楽しそうに思い出話をしてくれました。近所にあったお店や小学校の入学式の帰り道に歩いた本通り、よくお世話になっていた福屋(広島の百貨店)のこと…。

祖父にとって広島は悲しいばかりの場所ではなく、やさしく温かい思い出もたくさんある場所なのだと気付かされました。

しかしそれらも含めて祖父は忘れられること、別の言葉で塗り替えられてしまうことを恐れているのではないかと感じました。これまでの対話のなかで語ってくれたことがすべてではありません。しかしあの日必死に生き延びた一人の人間が70年以上語れなかったことがあるということ、そしてその時間の存在を残さなければいけないのではないかと思い、この作品を制作しました。

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